各務原飛行場の歴史と現在!ゼロ戦初飛行の真相と日本最古の理由
岐阜県各務原市の広大な敷地に広がる「航空自衛隊岐阜基地」。航空ファンやミリタリー愛好家の間では、テストパイロットが集う「飛行開発実験団」の本拠地として知られていますが、この地が「日本国内に現存する飛行場の中で最も長い歴史を持つ」という事実をご存じでしょうか。大正時代初期の開設以来、100年以上にわたって日本の空の最前線であり続けています。
さらに、あの伝説の名機「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」が初めて大空へと舞い上がったのも、まさにこの各務原の滑走路でした。なぜ米作にも適さなかった不毛の原野が、日本の航空産業を牽引する一大拠点へと変貌を遂げたのか。本稿では、公開記録や歴史的手記、最新の現地動向をもとに、各務原飛行場が歩んだ激動の歴史と知られざる真相を徹底解剖します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:各務原飛行場は1917年(大正6年)開設の「日本現存最古の飛行場」であり、現在は航空自衛隊岐阜基地として運用されている。
- 要点2:三菱重工業が開発した「ゼロ戦」初号機の初飛行(1939年)の地であり、川崎重工業岐阜工場とともに日本の航空機開発・生産の心臓部として発展した。
- 要点3:現在は自衛隊全航空機の試験飛行を一手に担う「飛行開発実験団」が所在し、隣接する「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」とともに航空の歴史と未来を体感できる。
【100年超の系譜】なぜ各務原飛行場は「日本現存最古」であり続けられたのか?
日本における航空の幕開けといえば、1911年(明治44年)に開設された埼玉県所沢市の「所沢飛行場」が広く知られています。しかし、所沢飛行場は戦後に米軍へ接収された後、返還を経て公園や市街地(所沢航空記念公園など)へと再開発され、飛行場としての機能は喪失しました。対して、1917年(大正6年)に開設された「各務原陸軍飛行場」は、米軍接収期を挟みながらも滑走路としての機能を一度も途絶えさせることなく、現在の航空自衛隊岐阜基地に至るまで現役の軍用飛行場として稼働し続けています。これこそが「現存最古」と呼ばれる決定的な理由です。
そもそも、なぜ岐阜のこの地が選ばれたのでしょうか。各務原市史や当時の公文書を紐解くと、そこには地形的・地質学的な必然性がありました。各務原台地は木曽川の洪積台地であり、砂利混じりの土壌であったため、当時は「作物が育ちにくい不毛の荒野」として放置されていました。しかし、飛行機の離着陸という観点からは、「雨が降っても水はけが極めて良く、地盤が強固で地盤沈下が起きにくい平坦地」という、飛行場建設にとって理想的な条件を備えていたのです。
1919年(大正8年)には所沢から陸軍飛行第2大隊が移転し、本格的な航空部隊の拠点となりました。当時撮影された記録写真には、草創期の木製練習機が砂煙を上げて飛び立つ雄姿が残されており、ここから日本の航空史が力強く動き出しました。

【噂の真相】ゼロ戦初飛行の地とされる伝説|名古屋製が各務原で飛んだ決定的理由
歴史ファンの間で今なお熱く語り継がれるのが、「ゼロ戦初飛行の地」というトピックです。ネット上の一部では「ゼロ戦は三菱重工の名古屋工場で作られたのに、なぜ各務原で初飛行を行ったのか?」「各務原飛行場で作られたというのはデマなのか?」といった疑問が散見されます。
結論から申し上げますと、「ゼロ戦の試作初号機が初めて大空を飛んだのは間違いなく各務原飛行場」です。開発主任を務めた堀越二郎技師の手記『零戦 その誕生と栄光の記録』にも、1939年(昭和14年)4月8日、各務原の滑走路でテストパイロットの手によって十二試艦上戦闘機(後の零戦)が滑走し、美しい軌跡を描いて離陸した感動的な瞬間が克明に記されています。
名古屋で組み立てられた機体がわざわざ各務原へ運ばれた背景には、当時のインフラ事情がありました。当時、三菱重工業の名古屋航空機製作所(大江工場)には隣接する広大なテスト飛行場がまだ整備されておらず、陸軍の管理下にあった広大な各務原飛行場を借用する必要があったのです。
機体は分解され、厳重な軍事機密としてシートに覆われた上で、牛車に引かれて未舗装の悪路を24時間以上かけて各務原まで陸送されました。牛の歩みのようなスピードで運ばれた最新鋭戦闘機が、各務原の格納庫で再組み立てされ、世界最高峰の運動性能を実証したという事実は、日本の技術者たちの執念を物語る象徴的なエピソードです。
| 時代・項目 | 各務原飛行場の主な出来事 | 当時の国内航空事情 | 編集部の見解・歴史的価値 |
|---|---|---|---|
| 大正期(1917年〜) | 陸軍各務原飛行場が開設。川崎造船所が隣接地に航空機工場を建設(1921年)。 | 所沢を中心に軍用航空の研究がスタートした草創期。 | 「飛ばす場所」から「機体を作る場所」へと官民連携の礎が築かれた。 |
| 昭和戦前期(1939年) | 三菱「十二試艦上戦闘機(ゼロ戦試作機)」が各務原飛行場で初飛行に成功。 | 欧米に追いつくため国産戦闘機の高性能化が急務だった時代。 | 牛車輸送を経て初飛行を達成した日本の航空工学史上最大の金字塔。 |
| 終戦・接収期(1945〜58年) | 各務原空襲で壊滅的被害。戦後は米軍「キャンプ各務原」として接収・運用。 | GHQの航空禁止令により日本の航空機開発が全面凍結。 | 滑走路の接収が継続したことで、皮肉にも飛行場用地が散逸せず保持された。 |
| 現代(現在〜2026年) | 航空自衛隊岐阜基地として運用。「飛行開発実験団」が全自衛隊機の試験を担当。 | 次期戦闘機(GCAP)や新型無人機の研究・試験が加速。 | 日本で唯一、多種多様な試作機・実験機が日常的に飛来する最高峰の試験拠点。 |
【航空宇宙産業の集積】川崎重工業岐阜工場と各務原市が歩んだモノづくり史
各務原飛行場を語る上で欠かせないのが、隣接する川崎重工業岐阜工場の存在です。1921年(大正10年)、当時の川崎造船所は飛行場に隣接する約20万平方メートルの用地を取得し、航空機の組立工場を新設しました。この進出によって、各務原は単なる軍用滑走路から、「航空機を設計・製造し、その場で滑走路へ出して即座に試験飛行を行う」という世界有数の航空産業クラスターへと劇的な進化を遂げました。
戦時中、川崎航空機は三式戦闘機「飛燕」や五式戦闘機など、液冷エンジンを搭載した革新的な名機を次々と生み出しました。しかしその重要拠点ゆえに、1944年(昭和19年)11月23日以降、米軍のB-29爆撃機による激しい「各務原空襲」の標的となり、工場や飛行場周辺は壊滅的な打撃を受けました。
焦土からの復興を遂げた戦後、川崎重工業岐阜工場は1956年(昭和31年)に国産初のジェット練習機「T-33A」初号機の飛行を成功させ、自衛隊の国産哨戒機P-1や輸送機C-2の主契約企業として、今や日本の航空宇宙防衛産業の心臓部となっています。各務原市における航空宇宙関連産業の製造品出荷額は全国トップクラスを誇り、「飛行機の街・各務原」のアイデンティティは今なお強固に息づいています。
【変遷と現在】航空自衛隊岐阜基地と唯一無二の部隊「飛行開発実験団」
終戦後に米軍へ接収された各務原飛行場は、1958年(昭和33年)に日本へ全面返還され、航空自衛隊岐阜基地として再出発しました。現在の岐阜基地は、第2補給処長が基地司令を兼務する広大な兵站拠点であると同時に、自衛隊内で唯一無二の極めて特殊な任務を帯びた部隊が配置されています。それが「飛行開発実験団(ADTW: Air Development and Test Wing)」です。
飛行開発実験団は、航空自衛隊が新たに導入・改修する戦闘機、輸送機、練習機、誘導弾(ミサイル)、各種電子戦アビオニクスなどの性能試験や実用化テストを専門に行う組織です。テストパイロットと呼ばれる選び抜かれた精鋭操縦士とエンジニアが集結しており、F-15J、F-2、C-2、T-4など、空自が保有するほぼ全機種の機体が同一基地内に配備されています。
通常、航空自衛隊の基地には配備機種が限定されますが、岐阜基地だけは試験のために多種多様な機体が混在して駐機・飛行しています。この特殊な運用体制こそが、各務原飛行場が現在も日本の航空開発の最先端プラットフォームであり続ける証拠です。
【実態検証】跡地見学スポットと岐阜基地航空祭のリアルな現場感
「歴史的な飛行場の遺構や、飛んでいる航空機を間近で体感したい」という来訪者にとって、各務原は国内最高峰のフィールドミュージアムです。現場を訪れるファンや観光客の声を交えながら、外せない見どころを整理しました。
1. 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博・そらはく)
岐阜基地の南側に位置する「空宙博」は、国内最大級の航空宇宙専門博物館です。ここには、各務原で製造された旧日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」二型量産機の現存する世界唯一の実機が完全修復された状態で常設展示されています。鏡のように磨き上げられた無塗装のジュラルミン製機体を目の当たりにすると、当時の職人技と各務原のモノづくりの魂に圧倒されます。また、戦前の各務原飛行場の精密模型や、ゼロ戦の初飛行にまつわる貴重な一次史料も多数公開されています。
2. 岐阜基地航空祭(名物の異機種大編隊飛行)
毎年秋に開催される「岐阜基地航空祭」は、全国から十数万人規模のファンが詰めかける国内屈指の人気イベントです。来場者のSNSやコミュニティの生の声でも圧倒的な支持を集めているのが、テスト部隊である飛行開発実験団ならではの「異機種大編隊飛行(マスフライト)」です。
F-15、F-2、C-2、T-4といった大きさも飛行特性も全く異なる機体が、寸分の狂いもなく美しい隊形を組んで上空を通過する光景は、日本国内では岐阜基地でしか見ることができません。テストパイロットたちの極限の技量を間近で体感できる瞬間です。
3. 飛行場周辺の歴史遺構とビュースポット
基地の周辺には、戦時中の痕跡を伝える掩体壕(えんたいごう)跡や陸軍時代の門柱などの遺構が点在しています。また、滑走路エンド付近にある「前渡不動尊」の高台や「かかみがはら航空宇宙科学博物館」周辺の展望エリアからは、日常的にテストフライトを繰り返す実験機の迫力あるタッチアンドゴーやアフターバーナーの轟音を観察することができます。
【プロの結論】航空ファン・歴史探訪者が訪れるべき判断基準と見学の心得
各務原飛行場エリアの探訪は、すべての人にとって一律におすすめできるわけではありません。訪問者のニーズによって満足度が大きく分かれるため、以下の判断基準を参考にしてください。
- 強くおすすめできる人:
- 日本の航空産業史、戦前・戦後のモノづくり技術の進化を一次資料や実機で深く学びたい人。
- F-2やF-15など、異なる戦闘機が同時にテストフライトを行う迫力あるシーンや大編隊を撮影したい航空ファン。
- 子供に本物の航空機・宇宙探査機に触れさせ、理系的な知的好奇心を育みたいファミリー層(空宙博は体験展示が充実)。
- 慎重な計画・注意が必要な人:
- 現役の自衛隊基地内部をいつでも自由に見学・散策できると誤解している人(岐阜基地内は原則として一般非公開。敷地内へ入れるのは航空祭や事前申込み制の基地見学のみ)。
- 静寂な歴史観光地を求めている人(平日の基地周辺はジェットエンジンの激しい爆音が発生するため、静かな散策には向きません)。

【各務原飛行場】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:日本で最初の飛行場である所沢飛行場と、各務原飛行場の違いは何ですか?
A1:所沢飛行場(1911年開設)は「日本初」の飛行場ですが、戦後米軍から返還された後は公園や公共施設として再開発され、飛行場としての役目を終えました。一方、各務原飛行場(1917年開設)は、陸軍飛行場から米軍接収期を経て現在の航空自衛隊岐阜基地に至るまで、一度も閉鎖されることなく運用され続けているため「日本現存最古の飛行場」となります。
Q2:ゼロ戦の初飛行が行われた正確な場所は、現在の岐阜基地のどこですか?
A2:現在の岐阜基地滑走路のほぼ中央から西側一帯とされています。当時、三菱重工名古屋工場から牛車で運ばれた十二試艦上戦闘機(ゼロ戦試作機)は、現在の滑走路エリアに設置されていた仮設格納庫で組み立てられ、滑走路を滑走して大空へと飛び立ちました。基地周辺の「空宙博」では当時の飛行ルートや詳細な解説展示を見ることができます。
Q3:一般人が各務原飛行場(岐阜基地)の敷地内に入ることはできますか?
A3:防衛施設であるため通常は一般公開されていません。ただし、毎年秋に開催される「岐阜基地航空祭」の一般開放日や、基地広報が定期的に受け付けている事前予約制の「基地見学ツアー(平日開催・定員制)」を利用すれば、敷地内に入って歴史的建造物や展示機を見学することが可能です。
まとめ:日本の空の歴史と未来が交差する各務原飛行場の真価
かつて「作物が育たない不毛の原野」と呼ばれた各務原の大地は、水はけの良さと強固な地盤という天賦の条件を見出されたことで、日本現存最古の飛行場へと生まれ変わりました。そこで育まれた官民一体の航空技術は、ゼロ戦の初飛行という伝説を刻み、激しい空襲と米軍接収の荒波を乗り越えて、現代の川崎重工業岐阜工場と航空自衛隊岐阜基地へと見事に結実しています。
現在も日々、次世代の防衛装備品や航空技術を検証するため、テストパイロットたちが各務原の空へと飛び立っています。100年を超える重厚な歴史の地層の上に、日本の航空宇宙産業の未来が築かれている各務原飛行場。その地に刻まれたエンジニアやパイロットたちの情熱の軌跡は、今もなお轟音とともに息づいています。 (出典: 各務原飛行場(Yahoo!ニュース))